魔女の嫁入り(笠黄)


魔女の力が最も高まる満月の夜。
自分でも力が制御不能に陥る危険性があることを承知の上で、男でありながら魔女である黄瀬 涼太は魔女の力の一つ、相手を虜にする能力<魅了>の力を全開にして想い人を落としにかかった。

ここで卑怯だとか、そんなものはやったもん勝ちだと誰かが嘯いていた。
けれどもまさしくその通りだとうっとりと黄瀬は瞳を細めて、手に入れた想い人を熱の滲む甘い眼差しで見下ろした。

「ねぇ、センパイ」

「ん?」

黄瀬がなりふり構わず落としにかかった想い人は…バスケ部で主将をこなす二つ年上の先輩。
そしてなんと彼もヒトではなかった。
彼の…笠松 幸男の正体はヴァンパイアであった。

遥か昔からヴァンパイアは陽の光にあたると灰になってしまうなど、陽の光に弱いとされている。
また、鏡に映らない、にんにくやトマトが嫌い、香草、銀、十字架がダメ、など…諸説あるが、黄瀬がこれまで見てきた笠松はどれも平気そうであった。
陽の光など特に部活をしていれば外に走りに行く機会など何度でもあったし、それこそ普通の人間となんら変わりなく日々を過ごしていたように思う。

学校の無い今日もバスケ部は午前中から練習が有り、天気は気持 ち良い程に晴れ渡っていた。
お昼を挟みながらの部活は三時に終わり、今はその帰り道。
海常のジャージに身を包んだ黄瀬は肩に掛けていた青と白のエナメルのバッグを担ぎ直して、隣を並んで歩く笠松に疑問に思っていたことを訊いてみた。

「センパイは陽の光とか大丈夫なんスか?」

「あぁ。その辺のことは御先祖様達が頑張って克服してくれたらしくてな、それなりに耐性あるから今んとこ何の問題もねぇ」

「へぇ、そうなんスか…」

ならば銀の弾丸でないと傷付けられない、心臓に杭を打ち込まないと死なないというのは本当だろうか?
もちろん確めるつもりはないが、ヴァンパイアで無くともそんなことをされたら普通に人間だって死ぬ。もちろん魔女だって例外じゃない。
しかし、これはストレートに訊いてもいいものか。

「他に何か訊きてぇことあんなら言ってみろ」

視線を感じたのかちらと見上げてきた笠松の薄墨色の瞳が黄瀬を捉えて強気に言う。

「えっと…じゃぁ、センパイの弱点ってなにがあるんスか?」

「………」

「あっ、別にセンパイの弱点が知りたいとかじゃなくて!センパイは不老不死って奴なんスか?」

訊き方を間違えたと鋭くなった笠松の眼差しに黄瀬は慌てて言葉を付け足した。

「不老不死かってのはまぁ間違いじゃねぇな。余程のことがねぇ限り死ぬことはない。…逆にお前はその辺どうなってんだ?」

黄瀬の言葉に笠松は別段機嫌を損ねた風でも無く、黄瀬が訊きたかったことを汲み取って答えてから、逆に魔女はどうなんだと聞き返してきた。

「俺っスか?俺は…」

魔女は魔女の力を持つだけで、その力さえ隠してしまえばなんらヒトとは変わりない。一応寿命はあるが、ヒトよりは遥かに長生きだし、不老について言えば力を使えばどうとでもなる問題だ。

「んー、俺も余程のことがない限り寿命が来るまで死ぬことはないっスね」

「不死ってわけじゃねぇのか」

「そうっスね。…あ、センパイ。俺ん家ここっスよ」

住宅街の一角に建つ大きな家。広い敷地には庭があり、二階建ての上部には出窓が見える。お洒落な門扉の横にはローマ字でKISEと彫られた茶色い表札が付いていた。
かしゃん、と門扉を開けた黄瀬の背後で笠松は足を止める。

「うちの両親、休みになる度に旅行とか行ってるんで今日もいないんスよ」

良い歳していつまで新婚気取りでいるのやら。

「姉ちゃん達も休日出勤と大学のサークルがって言って今誰もいないんで…って、センパイ?」

くるりと後ろを振り返った黄瀬は笠松が門扉の前で足を止めてついて来てないことに気付き首を傾げる。

「どうしたんスか?」

不思議そうな顔をして黄瀬は一歩、二歩と戻って来て笠松の正面で足を止めた。それに笠松は、あーと困ったように眉を寄せるとぽつりと溢した。

「悪い。入れねぇんだ」

「え?」

「ヒトの流れがある開けた場所とか店ならいいんだけどよ。こういう個人的な家になるとな…」

「……あっ!スンマセン、俺、気付かなくって」

そう言うと黄瀬は道を開けて、にっこりと笑いながら笠松へと言った。

「どーぞ、笠松センパイ。入って下さいっス!」

「おぅ…面倒臭くて悪いな」

「いーえ、家に誘ったのは俺っスから」

確かヴァンパイアは家人に招かれなければ、その家に入ることが出来ないと何かの映画で観たことがある。
どうやら笠松はこのシキタリに縛られてしまうらしい。

「無理矢理入れねぇこともねぇんだけど、それすっと後で反動がくるからよ」

「へぇー、そうなんスか」

玄関の鍵を開けて中へ入った黄瀬は笠松を促す。

「さ、上がって下さいっス」

「あぁ、お邪魔します」

笠松は黄瀬に続いて家の中へと入った。
靴を脱いで玄関を上がった黄瀬は笠松を案内しながらトントンと階段を上っていく。
階段を上がれば広いスペースがあり、廊下に取り付けられた窓から柔らかな光が射し込んでいた。
二階には洋室が四つとトイレ、洗面所が一つある。洋室は姉二人の部屋と黄瀬の自室。半物置化してしまった部屋だ。
階段を上がって右手側に姉二人の部屋があり、黄瀬の部屋は左手側で隣に半物置化した部屋。階段の上がり口とは反対側にトイレと洗面所があるという間取りだった。
簡単にいうと、今、上がってきた階段を中心にぐるりと回廊のように廊下が伸びていて、各部屋は対角線上になるように作られているということだ。

「俺の部屋こっちっス」

左右に伸びた廊下を左に進み、黄瀬は自室へと笠松を招き入れる。
柔らかな色で統一されたカーテンやベッド。毛足の長いラグの上には折り畳み式の机。備え付けの棚には色んな雑誌が詰め込まれていた。
ベッドの側にどさりとバッグを下ろした黄瀬はラグの上に転がっていたクッションを拾って脇に避けながら笠松を振り向く。

「適当に座って寛いでて下さいっス。今、下から飲み物持ってくるっスから」

「あぁ。別にそんなに気ぃ使わなくてもいいぜ」

バッグを下ろしながら言った笠松に、それが自分への気遣いだと気付いて黄瀬はちょっと言い換えて気持ちを伝えた。

「俺がしたいんス。じゃ、ちょっとだけ待ってて下さいっス」

何か気になるものがあれば見ててもいいっスよ。
そう言い置いて黄瀬は一旦部屋から出て行った。
バタンと閉まった扉から目を離して、ラグの上に腰を下ろした笠松はふっと小さく息を吐く。

「無防備過ぎだろ…お前」

ヴァンパイアである自分をこうも簡単に家の中へ入れるとは。
喰ってくれと言っているようなものだ。
まぁ、笠松の正体を知った後でも好きだと言って身を差し出そうとしてきた黄瀬の事だから、そう取ってもあながち間違いではないだろう。
ふぃと室内を見回した薄墨色の双眸がじわりと妖しく赤みを帯びる。

「…ここでなら、問題はねぇか」

黄瀬の部屋へと入ってから殊更強く甘く、蜂蜜のような良い匂いが笠松の鼻腔を悪戯に擽っていた。






ふんふんと上機嫌で鼻歌を歌いながらキッチンで飲み物を用意した黄瀬は足取りも軽く階段を上がる。

「気付いてくれたかなぁ、センパイ」

昨夜の時点で黄瀬は笠松を家に誘うことを決めていた。
自分から告白して、付き合い始めてまだ一週間。その間に軽いキス程度の接触はあれど、笠松の言う"初めて"を黄瀬はまだ体験していなかった。
平日は互いに学校と部活、おまけに自分はモデルの仕事もあるので、もしかしたら笠松は遠慮して手を出してきてくれないんじゃないかと黄瀬は真剣に考えた。
そうして考えた結果、黄瀬は自らその機会を作ることにしたのだった。

「行動あるのみっスよね!俺の覚悟はセンパイに告白した時からとっくに出来てるんスからね」

よしっと意気込みながら黄瀬はトレイを片手に自室の扉を開ける。

「お待たせしましたー。センパイ、烏龍茶でもだいじょ…うぶっス…」

よね?と、最後まで言葉にならずに黄瀬はぽかんと口を開けた。
つぃと細められ振り向いた瞳に琥珀色の瞳を見開く。
黄瀬へ投げられた眼差しが、いつの間にやら鮮やかな紅玉へと変わっていた。

「なに今さら驚いてんだお前は」

早く入って来いと言われて黄瀬はハッと我に返る。
慌てて部屋の中に入り、後ろ手で扉を閉めた黄瀬は笠松の側に腰を下ろしトレイの上に乗せていた飲み物をテーブルの上に置いた。

「せ、センパイがいきなり本性あらわにしてるからちょっとびっくりしただけっスよ」

その証拠にどきどきと胸の鼓動が甘く脈打つ。
ふぅんと流された視線が黄瀬を見つめて笑う。

「それだけか?顔赤くなってんぞ」

「うっ…」

悪戯っぽく笑って頬に伸ばされた手を黄瀬は大人しく受け入れる。
だって、なんか、そうなるとセンパイの雰囲気がガラリと変わって…色気があるっていうのか大人っぽくなるっていうのか、とにかく更に格好良さが増して、どきどきしない方がおかしい。
かぁっと赤く染まった頬に触れた指先が黄瀬の目元を優しくなぞる。

「お前って仕掛ける時は大胆なのに、受け身になると途端に可愛くなるよな」

そんなとこも可愛くて好きだけどと囁いて、ゆるりと甘く崩れた眼差しがゆっくりと近付く。
それを合図にするように琥珀色の瞳がうっとりと滲み、蕩けて甘くなった蜂蜜色に染まる。
距離を縮めた紅い瞳が綺麗だなぁと見惚れながら黄瀬はそっと静かに瞼を閉じた。

「ん…」

軽く唇が触れ合い、吐息が混じる。
戯れるように額や瞼、鼻先、頬に順に唇が落とされ、その柔らかな感触に黄瀬はふにゃりと嬉しそうに笑う。

「…ん」

数回それを繰り返して、笠松の手が黄瀬の髪の中へと差し入れられた。

「黄瀬…」

膝立ちになった笠松に引き寄せられて黄瀬は求められるままにおずおずと薄く唇を開く。

「ん、せんぱいっ…ん…ふっ…」

引き寄せられてするりと入り込んだ舌が口内を探るように愛撫していく。上顎を擽られ、歯列をなぞられる。

「…ンっ、ん…ぅん…」

舌を差し出せば絡めとられ、少し温度の低い舌先が擦れ合う。
やがてくちゅくちゅと水音が立ち、どちらのものとも分からぬ唾液が黄瀬の口端から零れ落ちる。

「…ふっ」

角度を変え熱い吐息を漏らした笠松にぞくりと背筋を震わせて、黄瀬は笠松の顔が見たいとゆるゆると瞼を持ち上げた。
そして間近にあった熱を孕んだ紅い眼差しにどくりと心臓が高鳴り息を詰める。

「っ――」

ざわざわとどこからともなく沸き上がってくる熱が黄瀬の身体をぶるりと震わせた。

「ン…は…ぁ…っ」

絡んだ視線の先で瞳を細めた笠松は、唇を離して繋がった透明な糸を濡れた舌を翻して舐めとり、熱の混じった声を出す。

「は…っ、きせ…」

同じくはぁっと熱い息を吐いた黄瀬は笠松の肩口に額を押し付けると、どくどくと逸る鼓動に身体を熱くさせ笠松の背中に回した手できゅっと笠松の服を掴んだ。

「ね…っセンパイ、なんか今、俺に力使ってる っスか…?」

本性を露にした笠松に触れられてから、何だかあっちこっち心も身体もぐずぐずと甘い疼きに襲われていつもより呼吸が熱く乱れる。
黄瀬の言葉に笠松は手触りの良い頭を撫でながら緩く微笑んで、間近に見える白い首筋へ鼻先を近付けた。

「力使ってんのはお前の方だろ」

すんっと首元で鼻を鳴らして吐き出された吐息が黄瀬の肌の上を滑る。

「っ、俺は使ってないっスよ!これは勝手に漏れてるんス!」

「抑えられねぇのか?」

ちらと至近距離から紅い瞳に見つめられ、じわりと黄瀬の頬が赤く染まる。

「…す、好きな人が、センパイが、こんな近くにいて制御しろって方が難しいっス」

「ふぅん…。ま、この間と違って問題ねぇからいいけどな」

視線を戻した笠松の唇がやんわりと首筋に押し付けられ、ぬるりと熱い舌先が皮下の下に流れる赤い道を辿るように肌の上をなぞる。

「っひ…ぁ…ん、っどーいう意味っスか…?」

それにぞわりと肌を粟立たせ、黄瀬は笠松に抱き着いた腕にぎゅっと力を込めた。
笠松はなぞった首筋に尖った犬歯を添えると甘噛みするようにやわやわと軽く食んで、頭を撫でる手とは逆の手で黄瀬の背中を抱き締める。

「ん…この間と違って俺の力が安定してるから、お前が力を解放しても一気に理性を蝕まれることはねぇってことだ」

「…っ…あ…そー…なん…スか…ッ」

牙を突き立てられぬままただあぐあぐと噛みながら喋る笠松にむず痒いような妙な痺れが生まれてきて黄瀬は無意識に身を捩った。
するとそこで笠松はぴたりと動きを止め、何故か黄瀬から離れていく。

「っ…ん?センパイ?どう…」

「付き合い始めて一週間…俺はお前を見てきた。魔女だって知っても想いは変わってねぇ」

突然の告白に笠松の肩に頭を寄せていた黄瀬も顔を上げて笠松と視線を合わせる。

「だから、手放せるとしたら今しかねぇ」

「へ…?」

これが最後の警告だと笠松は真摯な眼差しで告白した夜と同じような言葉を繰り返した。

「俺はお前が好きだ。けどその前に俺はヴァンパイアで、俺の家系は伴侶に決めた奴からしか吸血はしない。吸血はヒトの世でいう結婚と 同義で、俺に噛まれて血を吸われたらお前は永久に俺から離れられなくなる」

「それは聞いたっス」

聞いて、自分は喜んだ。
笠松と一生一緒にいられるなんて夢じゃないかと。
だから手放せるなら今だと言う笠松に黄瀬は何を言っているのかと眉を寄せた。

「途中で俺が嫌になっても離れられねぇし、人気商売のお前が俺と付き合うことでデメリットはあってもメリットはねぇ」

そこまで言われて黄瀬は気付く。
笠松は黄瀬の将来を思って警告してくれている。
万が一にも、そんなことはありえないが黄瀬の心が移ろった時の事も考えて笠松は言っているのだ。
眉根を寄せていた黄瀬の顔がほわりと綻ぶ。

「そんなん…センパイが側にいてくれない方が俺にはデメリットより辛いっス」

それにと蜂蜜色の双眸を甘く滲ませて笠松を見つめ返す。

「俺はセンパイが良いんス。むしろセンパイじゃなきゃ嫌っスよ。俺はこれでも一途なんスからね。センパイこそ覚悟して欲しいっス!」

きっぱりと想いを口にした黄瀬に笠松は緩く口許を綻ばせると、黄瀬の頬に手を滑らせ愛しげに瞳を細めた。

「馬鹿だなお前。…後でやっぱ嫌だって言ってももう戻れねぇぞ。お前のこの先の未来、俺が全部貰うぞ」

「っせんぱい…」

頬に添えられていた手がするりと首元に移動して、濃さを増した紅玉色の瞳が黄瀬を強く射抜く。
その目に見つめられた瞬間にどくりとまた鼓動が大きく跳ねる。
どくどく、どくどくと、そのまま速まる鼓動に黄瀬は向かい合っていた笠松の後頭部に両腕を回すと、笠松の顔を自らの首元へと引き寄せた。

「俺も…センパイが好きっス。だから、センパイのものにして下さいっ」

ぶわりとその想いに共鳴するように黄瀬から甘ったるい誘惑するような香りが溢れ出す。
目の前に差し出された美味しそうな白い首筋に笠松は唇を寄せ、黄瀬…と甘い声音で空気を震わせた。

「選んだからには後悔させねぇ。…一生大切にする」

「せっン…ぁ…ん…ッ!?」

ぶつりと皮膚を突き破るような感触と熱い疼きが同時に黄瀬の身体に襲いかかる。不思議なことに痛みは無く、ただ牙を突き立てられた場所から熱を伴った妙な甘い痺れが背筋を走り抜け、黄瀬の思考を散り散りに霧散させる。

「はぁ…ッ…ん…ぁ…」

じゅるじゅると血を吸い上げる音が鼓膜を揺らし、それによって生まれた熱に身体を震わせる。
ぐずぐずと下がっていく血の気とは別に愛撫されるような感覚に 、鼻に掛かったような甘い声が漏れた。

「ふぁ…っ、せんぱ…っ…」

とろりと熱に浮かされたように蕩けた蜂蜜色の瞳を潤ませて、黄瀬は堪らずに笠松の頭を抱き締める。

「…ッ…ん…は…ぁ」

吐き出される甘い吐息と声音をうっとりと聞きながら吸い上げた血を舌の上で転がす。黄瀬の血はさらりとしていて飲みやすく、それでいて極上の蜂蜜のような甘さがある。魔女の力を発現させた時の美味しそうな黄瀬そのものの様だと、癖になりそうな味に笠松はごくりと喉を鳴らした。

「あ…っ…ん…セン、ぱっなんか…変っ…ス…」

がくりと力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった黄瀬は笠松の腕に抱き止められる。
息を弾ませながら譫言のように声を漏らした黄瀬に笠松は突き立てていた牙を抜くと、たらりと零れた血を舐めとり傷口へと舌先を這わせた。

「ン…っ、はぁっ…せん…ぱい…?」

ちりちりと身体の奥が燃えるように熱い。
気だるく感じるのは血が減ったせいか。
力の抜けた腕で笠松に抱き着いたまま黄瀬は自身の中で膨れ上がる力を感じた。

「うぁ…っ…な、ン…!」

「大丈夫だ、黄瀬。慌てなくていい」

「でも…っ」

魔女の力が抑えきれなくなった時と同じよ うな感覚が身体を襲う。
首元から顔を離した笠松は黄瀬を優しく抱き締めて、戸惑う黄瀬の顔を覗き込んだ。

蜂蜜色の瞳の奥に紅い陽炎が揺らめく。

「は…っ、あ…つい…センパイ…」

じりじりと何かに煽られるように身体が昂り、顔を覗き込んできた笠松に引き寄せられるように黄瀬は自分から口付けていた。

「んっ…ふ…っ…」

性急に舌を絡ませ、水音が立つ。主導権はすぐに笠松に奪われ歯列をなぞられる。ぼぅっと熱に浮かされた思考はふわふわとして深まる口付けがとても気持ち良かった。

「ん…ぅ…はぁ…」

「…きせ」

つぅっと透明な糸が唇を繋ぎ、唾液に濡れた黄瀬の唇に笠松の指が添えられる。
その指先をぺろりと舐めて、黄瀬は無意識に歯を立てた。

「っ――」

がぶりと噛んで口の中に含む。
含んだ指先がぴくりと小さく反応して、熱に浮かされぼんやりしていた黄瀬はそこで弾かれるようにして我に返った。

「は…れ…?」

俺は今何をしようと…、指先を引き抜いた笠松をきょとんと見つめる。
見つめられた笠松は黄瀬に噛まれた指を見て、なるほどと小さく呟いた。

「あ…の、センパイ…?」

「身体の方、どっかおかしいとこあるか?」

「へ …?あ、いや…そういえば…」

もうどこも熱くない。
ぞくぞくとするような衝動も火傷しそうなぐらい熱かった熱も、今はさざ波のように引いている。
なによりも…黄瀬を見つめる笠松の瞳が薄墨色に戻っていた。

「無事に馴染んだか」

戸惑う黄瀬をよそに笠松がほっと息を吐く。

「な、なじんだ…って?」

「お前は魔女だ。違う種族の、俺の力を受けて多少反発されるかとも思ったが、まぁそうなったら無理矢理捩じ伏せるだけだが、それが最小限で済んで良かったぜ」

「え…なんか、今、物騒なこと…」

「結論から言うとだな、吸血してもお前は魔女のままだ」

「ヴァンパイアにはならないってことっスか?でも、センパイに噛まれたら…」

「ヒトと違ってお前は魔女ベースだからな。そういうこともあるだろ」

それってつまり、どういうことっスか?俺はセンパイのものになれないってことっスか?
へにゃりと不安そうにそんなの嫌だと黄瀬は分かりやすく顔を歪めた。

「ばか、勘違いすんな。お前はもう俺のもんだ」

背中に添えられていた手がさらさらと黄瀬の髪を撫で、頬を滑った指先がゆっくりと目元をなぞる。

「もう俺の色に染まってる」

蜂蜜色の双眸の奥にゆらゆらと消えることなく揺らめく紅い陽炎に笠松は満足気にニィと笑った。

「俺の影響か少し犬歯も尖ったな。まぁ見た限りお前に吸血の必要はねぇ」

「…そ…っスか」

俺はちゃんとセンパイのものになれたんだ。
そう認識が追い付いてからぽっぽっぽっと胸の奥が温かくなる。紅く温かな火が自分の奥深い所に根付き、血の流れを辿って身体中へと広がった。
黄瀬が纏っていた甘い蜂蜜のような匂いに薔薇の香りが混じる。
自身の変化に気付いた黄瀬は頬を赤く色付かせて嬉しそうにふにゃりと八重歯を溢して笑った。

「センパイ!ふつつか者ですがよろしくお願いしますっス!」

「おぅ。その台詞、使う順番ちょっと違うけどな」

「いーんスよ!気持ちの問題っス」

「ん…可愛いな、お前」

愛しい者を見つめる眼差しが絡み合い、鼻を擽る甘い香りが二人を包むように室内を満たしていった。






その夜、本人同士の同意の上で実質笠松の伴侶となった黄瀬はふやけたような笑みを溢し自室のベッドの上で幸せそうにごろごろと転がっていた。
そこへ控えめに叩かれた扉に黄瀬ははーいと身体を起こして弾む声で応えた。

「あのね涼ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど。今日うちに誰か…っ!?」

言いながら扉を半分開けた格好で二番目の姉、涼乃は目を見開き固まった。
ぴしりと音がしそうなぐらいの固まりように黄瀬は不思議そうに瞼を瞬かせると、僅かに小首を傾げる。

「どうしたの、涼乃姉ちゃん」

「ど、どうしたって…涼ちゃん!涼ちゃんこそどうしたの!?」

ばんっと扉を全開にして珍しく大声を出した涼乃に黄瀬は更に首を傾げる。
涼乃の言うどうしたの?が何を指すのかまったく分からない。
伝わっていないその様子に涼乃は焦れたように言った。

「お客様が来たならいつもと違う匂いが家の中にあるのは良いのよ。残り香っていうものだから。でも、これは違う。…涼ちゃんから涼ちゃんじゃない香りがする」

「え…?」

香りと言われて黄瀬は寝間着がわりに着ているTシャツを引っ張って、くんくんと鼻を鳴らした。
けれども涼乃の言う匂いが黄瀬にはいまいち理解出来なかった。

「何っていうかこう、クラッとくるような甘い…薔薇の芳香?」

「…!?」

うーんと考えながら涼乃が口にした言葉に黄瀬は目を見張り、それからもう一度すんと意識して匂いを嗅いだ。
あっという間に、自分でも気にならないぐらい馴染んでしまった香りが黄瀬の鼻腔を甘く擽った。

「〜〜っそうだ、これ、センパイが…」

意識した途端にボッと頬が赤く染まり、笠松の顔が頭に浮かぶ。
ふにゃりと幸せそうに笑み崩れた黄瀬に今度は涼乃が首を傾げた。

「ねぇ涼ちゃん、ほんとに今日は何があったの?」

「…それは私も是非知りたいわね、涼太」

「っ、涼華ちゃん!いつ帰ってきたの?お帰り」

「たった今よ。それで家の中に入ったら、何か良い匂いがするから何かと思ってね」

二人の姉から投げ掛けられた視線に黄瀬は隠すことなく、恋愛相談に乗ってくれた涼華と涼乃に向かって緩んだ表情で今日あったことを告げた。

「姉ちゃん。俺、笠松センパイのお嫁さんになったっス!」

それはもうきらきらと極上の笑顔で、思わず涼乃は良かったねと頷きそうになり、涼華の言葉で我に返る。

「は?え?ちょっと待って涼太。お嫁さん…?」

「そうっス!笠松センパイのお嫁さんになったっス」

「え?ね、ねぇ、涼ちゃん。笠松さんって女の人…だよね?マネージャーさんとか…」

「へ?何言ってるんスか。笠松センパイは男バスの主将で、月バスにも載るほどバスケ上手くて、その上超男前で格好良いセンパイっスよ!」

ちなみに男バスにマネージャーは存在しないっス。

自分のことのように瞳を輝かせて言った黄瀬に涼華と涼乃は顔を見合わせた。
互いに笠松センパイを弟の部活のマネージャーか何かと勘違いをしていた。

「まぁでも…相手が男でも涼太がそれで幸せになるなら私は祝福してあげるわ。むしろヒトに興味の無かった涼太が全力で落としにいった相手だもの」

「でも涼ちゃん、自分が魔女だって笠松さんには伝えたの?」

ヒトと魔女では生きる時間が違い過ぎる。
黄瀬家の両親は流れは違えど共に魔女の血を引いているから共に同じ時間を生きられる。
涼乃の心配そうな表情を黄瀬はふにゃりと柔らかく笑って吹き飛ばす。

「俺が魔女でもセンパイの想いは変わらないって」

「そっか…良かった。おめでと涼ちゃん」

「ありがとっス!…それにセンパイは絶対に俺を置いて逝ったりしないっスよ!」

にこにこと続けられた言葉に涼華と涼乃は再び驚くはめになった。

「だってセンパイもヒトじゃないから」





同時刻… 笠松家ではリビングに両親と小学四年生の弟、家を出た社会人の兄を除く笠松の家族が揃って夕食を食べていた。
その席で笠松は話が途切れた時に両親へと真っ直ぐに背筋を伸ばして、凛とした声で告げた。

「父さん、母さん。俺、今日結婚した」

突然の息子の結婚報告に父親は目を見開き、母親はきょとんとした後ため息を吐いた。

「何でお夕飯前に言ってくれないの。それならそうとお赤飯にしたのに」

「いや、別にそういうの良いから」

残念そうにする母親に笠松はさらりと返す。素っ気ない笠松の態度も気にせずに母親はあらでも、と話を続けた。

「ユキちゃん女の子苦手よね?」

幼い時に同族の女性に襲われかけてから、苦手というよりはもはや恐怖の対象ではなかったか。
衝撃の報告から復活した父親もそう言えばと笠松を見た。

「あぁ…相手、女じゃないから。むしろ女より綺麗で可愛い後輩」

「は…?」

「あらぁ、ユキちゃんの口からノロケが聞ける日が来るなんて」

ぽかんと再び固まった父親とは逆に母親は嬉々として瞳を輝かせる。

「それでどうやって落としたの?私がお父さんを落とした時は色仕掛けだったわ」

笠松家は母親が純血のヴァンパイアで、父親が元人間だったりする。
わくわくと乙女の様に息子の恋バナを聞きたがる母親は同年代の子供がいる母親達と比べると随分若々しく見えた。

「あー、どっちだろ?落としたっていうか、落とされたっていうか」

歯切れ悪く曖昧に、眉を寄せた笠松に母親はきらりと瞳を光らせる。

「ユキちゃんのお嫁さんならそのうち会えるわよね?誰とも付き合ったことのない、恋愛事に欠片も興味を持たなかったあのユキちゃんが。その気にさせたお嫁さんに会うのが楽しみだわぁ」

「…それで俺、高校卒業したら家出てもいい?まだアイツに確認してねぇけど、一緒に住もうかと思ってる」

「いいわよ。その辺はお兄ちゃんに相談しなさい。必要があれば相手の戸籍の改竄諸々お兄ちゃんがやってくれるから」

にっこりと笑いながら世間話をするのと同じ調子で母親は笠松の背中を押した。
不穏な単語を右から左へ流しながら笠松はありがとお礼を言う。

「戸籍云々はまだアイツと相談してから決めるから。兄貴にも俺から直接話すから」

そうねと祝福ムードを醸し出す母親とそれを受けとる笠松の側で、父親はちらりと黙ったままの三男へと視線を向けた。
くりっとした大きな瞳は隣に座る笠松を憧れの眼差しで見上げている。

「ユキ兄ちゃん、おめでとう !オレもユキ兄ちゃんみたくお嫁さん貰えるかなぁ?」

「おぅ、ありがとな。お前にもきっとその内可愛い嫁さん出来るさ」

わしゃわしゃと笠松に頭を撫でられて三男は嬉しそうににぱっと笑った。
それを見た瞬間、父親は諦めた。自分に味方は誰もいない。ならば言うことだけは言っておこう。

「はぁ…、幸男」

「はい」

「ヒト一人の人生を預かるというのは重いことだ。楽しいことばかりじゃない。特にお前は特異な体質だから、嫌になったから別れるなんてことも出来ない。それは分かっているな?」

「もちろん分かってる。それは俺もアイツも覚悟の上だ」

「その覚悟の中には嫁さんの家族から嫁さんを永久的に奪う覚悟も入っているのか幸男」

父親の視線が鋭く突き刺さる。
ヒトであった父。
ヴァンパイアである母。
今でこそ幸せそうに見える両親もここに来るまでに幾つもの試練を乗り越えて来たに違いない。
投げ掛けられる厳しい眼差しと言葉は笠松と未だ見ぬ伴侶の未来を思っての言葉だきっと。
笠松はふっと父親に向けて柔らかく笑った。

「当然。何を言われてももう手放せねぇし、手放す気もない」

「…そうか。ならこれ以上俺が言うことはない。幸男、嫁さんと幸せになれよ」

話が円満に纏まった所でテーブルの上に置いていた笠松の携帯電話がヴーヴーと振動し始める。
箸を置き、サブディスプレイを確認すれば黄瀬からのメールだ。
気になって中身を見れば、黄瀬の姉二人が笠松に会ってみたいと言い出したとか。申し訳なさそうな文面を目で追って、笠松はふむと、開いた携帯電話を顎に当てた。

「…………」

黄瀬を嫁に貰ったからには、事後になってしまうが黄瀬の家族に挨拶は必須だろう。
そう腹をくくってしまえば後は行動あるのみだった。






数日後、菓子折りを持って笠松は黄瀬家へと足を運んだ。



end



[ 15 ]

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